存在の証明

先日のブログに、友人からメッセージが届きました。

 

ばあちゃんに会いに行っても、孫である自分を認識してくれなくなってしまった。
身体は生きてるけど心はどうなの?
このまま死んだら魂は意思を持つの?

 

という内容。
それに対する私の返信があまりにも言葉足らずだったので、この場をお借りして伝えたいと思います。

 

まず認知症にはいろいろな種類があるのですが、ざっくりいうと脳や脳の血管の病変によって起こる認知機能の低下です。
それこそ症状は多彩です。
その中でも最もポピュラーな症状が記憶力の低下でしょう。
短期記憶から失われていきます。
ですから、友人のおばあちゃんも友人が生まれたころや幼いころの記憶が残っていたとしても、目の前にいる40過ぎのおっさんが自分の孫だとは認識できないわけです。

 

だけどですよ?
記憶が失われていく、理解力も徐々に低下していく、身体機能も衰えてできないことが増えていく中で、目の前の相手が自分に好意的かどうかというのは敏感に感じ取ります。
生きていくための死活問題ですからね。(だから生まれたばかりの赤ん坊も、反射的に微笑むようにプログラミングされています。)
にっこりと笑いかける
聞き取りやすい声で穏やかに語り掛ける
上記の2点を踏まえたうえで体に触れてくる人に対しては、認知症がどんなに進んでいても心を開いてくれる場合が多いのです。

 

記憶が失われていくことは、家族にとっては辛いことかもしれませんが、笑顔で穏やかに接することが、認知症を発症した人の心の安定につながるのだと伝えました。
短期記憶がなくなるということは、嫌なことも忘れられるし、逆にうれしいニュースは何度聞いても初めてのように喜んでくれるのですよ。
もちろんそこには心が生きています。

 

ですが認知症の中にはやっかいな症状もあって、感情の鈍麻というものもあります。
外部からの刺激に反応しなくなってくることがあるんですね。
ここで言いたいのが、反応がないからといって心がないわけではない、ということ。

 

とてもスピリチュアルな領域に踏み込んでいくようで、受け入れられない方もいるかもしれません。
今現在、このブログを読んでいるあなたには、心がありますね?
魂の存在も感じているかもしれない。
ではそれを、体の機能を一切使わずに他人に伝えることができますか?
伝えることはできなくても、それは確実に存在していますよね。
その存在を認めることができないのならば、いったい人間とは何なのでしょうか。
伝えることができないならば、存在しないというのは全くのナンセンスなのです。

 

最後になりましたが、肉体がなくなっても精神(魂)がなくなることはない、と信じています。
じゃないと生きる意味などない。
私はね。

 

じっと手を見る

今年も水栽培始めました。
綺麗に咲くといいな。

 

さて、未だに高齢化社会…とか言われてますけど、もう高齢化じゃないんですよね。
今、すでに高齢・多死社会なんです。
まだ問題に直面していない方も多いとは思いますが、今まで見ないようにしてきた現実が、私たち医療者の目の前にあります。
私は高齢者の心を救う手が欲しい。

 

入院患者さんで75歳なら、「あら、お若い」って思います。(後期高齢者ですが)
80・90当たり前、100歳オーバーなどざらにいる、そういう時代。
私が思うに、体の健康を重視しすぎて、心の健康をないがしろにしすぎてきてしまったツケが今回ってきたな、と。
寿命が延びることによって起こる、様々な問題を解決しようとしないままに、この国はここまでたどり着いてしまった。

 

数えきれないほどの高齢者たちと関わってきて感じることは、 人間は例外なく老いあるいは病み、いつか死んでいくものだということから目を背けすぎているんじゃないかということ。
思い通りにならない身体を、『そういうもの』と受け止めて生きていく覚悟があまりにもなさすぎる。
肉体の健康に対する異常なまでの執着は、心を病むことにつながっているんじゃないでしょうか。
齢90を超えた人が『もう死にたい』と嘆く姿を、なす術もなく見つめながら、だけどこの現状を変えていこうと心に秘めながら、今日も働いています。

雲外蒼天

最近の天気はなんだか嵐続きです。
雲も低く立ち込めて、空気もしんとつめたい。
心の中も、天気と同じで降ったり晴れたりの繰り返し。
大人になれば、晴れの日ってあまりなくて曇りや雨の日が多いような気もします。

 

だけど思うんです。
心の中で今までに降りかかってきた曇りや雨は、本当にただそれだけのことだったのかな?って。
曇りや雨があったからこそ晴れの喜びが増したことはなかったかな?って。
曇りや雨こそがむしろいい思い出になっていないかな?って。
曇りや雨が今の私を創っているんじゃないのかな?って。

 

だとしたら今この身に起きていることに、無駄なことは一つもない。
湧き上がる感情にも、無駄なことは何一つない。
大切なのは、曇りや雨にどんな意味をもたせるか。
結局は自身の意識にすべて任されているんだと思うんです。

 

『雲外蒼天』という言葉は、本来は努力すればいつかは報われるって意味なんだそうです。
でも私はずっと、目の前に現れている雨雲の上は常に晴れている、だからどんなに悲しいことの向こう側にも、たとえ努力が報われなくても、そこには真理や意味が隠されているんだ…そんな風に捉えていました。
そしてそれはきっと間違っていないと信じているんです。
空はいつでも晴れている。
すべてのことには意味がある。

怖がらなくていいんだよ

今年の春にはなんとワタクシも42歳。
男性の後厄にあたる歳です。
同年代の男性陣は前厄の40歳から42歳までの期間を戦々恐々とお過ごしかもしれませんw

 

だけど私はこう考えます。
厄年は自分のお役目に気づくきっかけの歳。
お役目をしっかりと果たすために、自分に与えられた肉体と精神を健やかに保つ努力を怠ってはいけない期間なのではないかな?って。
本来なら普段から気にかけるべきことなんだけど、つい忙しさや自我・欲求にかまけておろそかになりがちな健康問題。
『そろそろ襟を正しなさいよ!』って誰かに言われているような…。

 

厄除けの祈祷も奉納もいいですが、肝心要の自分の心と身体のメンテナンスをおろそかにして、神仏に頼っているようじゃダメだと思いますよ。
ほら、そこのあなた、耳が痛いでしょう?

 

本当なら、厄年に対する祈祷も奉納も必要ないと思っているんだけど、友人の1人が僧侶なのでまあそこはそれとして。
祈祷や奉納を行う時は、ご先祖様や神様に感謝の気持ちだけを捧げましょうね。
大木の枝葉の先の一葉のように、今ここに生かされている不思議を受け止めて感謝する心なら、だれにでも存在すると思うので。
思い出して。
そして忘れないで。

 

さて、じゃあ私を含めた女性はどうなの? っていうと。
女性は花。
つぼみも散る姿も美しい。
年齢などただの記号にすぎません。
そんなものに縛られずにイキイキと美しく生きていきましょう。
なぜか女性にはそれが可能なんです。
だってそれが女性なんです~、ごめんあそばせ~。

 

 

我らに重き使命あり

社会に出る前の貴重な3年間を過ごした高校の校訓は
・我らに燃ゆる希望(のぞみ)あり
・我らに高き矜持(ほこり)あり
・我らに重き使命あり
この三つでした。
その中でもとりわけ…

我らに重き使命あり

という言葉に身が引き締まります。
この言葉は、私たちにとっての宝であると思っています。

 

そしてこれからの教育には『使命感』を育む必要があると強く感じます。
人は誰かのために生きる生物です。
他のために生きることによって成熟し、自分のためだけに生きるならば、遅かれ早かれいつか必ず虚無に襲われます。

 

『使命感』があるからこそ、良心のもとに善悪を判断し、悪に染まりそうになる(あるいは悪に手を染めてしまった)行為を恥じ、自身を律する心が育つのではないでしょうか。
『使命感』のなかにこそ、誠実や勤勉や和合の精神が芽生えるのではないでしょうか。

 

私は、個人ひとりひとりの精神性が結集してその国を形作るものであると信じています。
そしてその精神性を養うものこそが教育であると思います。
数式や文法という知識を詰め込むことが教育ではありません。
知識は火と同じただの道具です。
その道具を使う人間の精神を正しく育てなければ元も子もないのです。

 

ですから、初期教育の『道徳』の時間を削ってしまったことには首をかしげてしまいますし、悪意すら感じます。
ですが嘆いたり憤っている時間はありません。
たった今、私たちにできることは何かを考えるべきです。
それは子供たちに人としてあるべき姿を大人たちが見せることにほかなりません。

 

『使命感』を幼いころから育む素地がこの国にはまだあります。
少しの焦燥を感じますが、まだ間に合う、大丈夫。
正しく伝えていくこと、正しく育てていくことが私たちの使命です。

 

 

ANSWER

こんばんは。
お久しぶりですね。
前回からずいぶん月日が経ってしまいました。
でも何も考えずにのうのうと暮らしていたわけではないのです。
自分をマイナスに戻す必要があったんです。
間違った方向へ向かっているぞっていう、私の存在をかけた全力のブレーキがかかっていたような気がします。

 

またこいつは変なこと言いだしたぞ…って笑いますか?
そうかもしれません。
でもそれでもいいのかもしれません。
笑ってもいいですよ。
自分にしかわからない感覚を有しているからこそ世界でたった一人の私なんです。
伝えようとして伝わるものではないのだと思います。
知らず知らずのうちに伝わってしまう僅かなものの中にこそ真実が隠されているのではないでしょうか。

 

真理のしっぽを捕まえたと思っては、またいつの間にかするりと手の中から逃げてしまっている。
覚醒の幸福感に包まれることもあれば、自分の愚かさに落胆することもある。
そういう毎日を真摯に繰り返していくことが人生なのでしょう。
それはきっと尊い日常です。

 

私が紡ぐ言葉にこの瞬間触れているあなたを含め、いまから出会う、あるいはもうすでに出会っている縁ある人々に、『出会えてよかったありがとう』『痛む心を癒すお手伝いをさせてください』と語りかけながら生きていく。
それが私の人生をかけた選択です。
世界から問いかけられた私の生きる意味への答えです。
誰から必要とされなくても決して捨てることのない命題です。

 

誰しもそれぞれ千差万別の『生きる意味』があって、生ある限り常に問いかけられています。
このANSWERに気づきさえすれば、孤独も貧乏も病も老いも死も恐れることはありません。
本当ですw